そう、それは僕が、科学への好奇心で一杯だった子供の頃……。
僕は小学三年のときに、九州の田舎から川崎に引っ越してきた。
転校先の学校には目新しいものが色々あったが、その中に学級文庫というものがあった。クラスの各人が一冊づつ本を持ち寄って、教室の後ろの棚の上に並べておき、皆が色々な本を読めるようにするというあれである。その中には僕が昔好きだった、超能力やUFO等の超常現象に関する子供向けの本が結構沢山あって、休み時問の度にそういう本に読み耽っていた。そんな本の中の一冊に、僕の目をひいたある文章があった。「川を渡る
――ある所に小川があった。両岸には草が沢山生えている。一方の岸のある草の一枚の葉の上に蛞蝓がいた。暫しの後にふと見ると、蛞蝓の体が何故かだんだん小さくなってゆく。と同時に、対岸に生えている草の葉の上で何かが現れ、それがだんだん大きくなってゆく。やがて小さくなってゆく蛞蝓は完全に消えてしまい、対岸の何かは元の大きさの蛞蝓となった。川を渡り終えた蛞蝓は何事も無かったかの様に去っていった――
この文章は幼い僕の心に大きな衝撃を与えた。
何しろ蛞蝓である。まるで初代ウルトラマンのテレポーテーションにも似た、この常識を超えた移動方法も、あの蛞蝓の体――塩をかけると溶けてしまう、あのぬめぬめとした軟らかい体――でなら可能にできそうな、そんな説得力がその文にはあった。(塩をかけた蛞蝓は小さくなるだけだということを知ったのは大分後だった)
この文章を完全に信じてしまった僕は、夜寝るときになると「寝ている間に蛞蝓が部屋に入ってきたらどうしよう」とか「もしかしたら顔の上に出てくるかも」とか「いやそれどころか口の中(!)に出てきたりしたら……」等と想像し、御蔭でしばらくは夜も眠れぬ自々が続いたものだった。
そして小学校を卒業し、中学に入り……超常現象から科学の方へ興味は移っていったが、この蛞蝓の話は僕の心に残り続けた。それが僕の人生を大きく変えるとも知らずに……
高校に入学すると僕は生物部に入った。そして鈴木という奴と出会った。鈴木とは中学は別だったが、家が近かったので帰る方向は一緒だった。それで部活の後よく一緒に帰って、電車の中で生物に関する話などをしたものだった。
そしてある下校時に、僕は、昔の事だから記憶に自信が無いが、と前置きしてあの川を渡る蛞蝓のことを鈴木に話した。すると彼も「あ、それ俺も読んだことある」と言うではないか。ひとしきりそのことについて話し合い、昔の記憶を再確認した。
更に、のみならず鈴木は実際に蛞蝓の空間移動(という言い方を鈴木はした)に遭遇したことがあると言った。
彼の話によると、ある晩夕食を食べ終ってふとテーブルの下を見ると、何か妙なものがあったそうだ。よく見ると蛞蝓のようだが角が無い。しかししばらく眺めていると、角が生えてきて完全な蛞蝓になった。しかしそのとき部屋の窓は全部閉まっていたし、床に蛞蝓の這った、あのきらきら光る足跡も無かった。これこそ蛞蝓の空間移動に違いない、と鈴木はすぐに確信したそうだ。僕はこの話を聞いて興奮した。このときから僕も蛞蝓の空間移動の実在を確信するようになった。
その後も蛞蝓の空間移動の話は幾度も二人の話題となり、しまいには将来二人でこの謎を研究し合うことを警うまでになった。
僕と鈴木は同じ大学を第一志望として受験したのだが、彼は合格し、僕の方は落ちてしまった。
それで結局別々の大学(勿論生物科だ)に進むことになったが、二人でどちらが先に蛞蝓の空問移動の謎を解くかを競うことを約束し、僕等は大学へ進学した。
それから何年かの後。
大学でひと通りの成績を修め、自分のやりたい研究ができるようになると、僕は早速蛞蝓の空間移動の研究を始めた。
それには先ず、実際に蛞蝓が空間移動することをこの目で確かめなければならなかった。研究室の中で様々な種類の蛞蝓を飼育し、環境や気温、温度を色々と変えながら親察をしてみた。僕が研究室を空けるときはビデオカメラを置いて蛞蝓の撮影をさせた。また、暇なときには近くの川辺に出かけ、蛞蝓が空間移動しているところを見つけようとしたりもした。そのせいで周囲からは蛞蝓
そしてある日の朝、研究室に出てみると、蛞蝓を入れている十個の水槽の内、三番目の水槽の中の蛞蝓の数が一匹減っていた。他の水槽を確かめてみると七番目の水槽では数が一匹増えていた。もしやと思い、設置しておいたビデオを再生させてみると、そう! そこには蛞蝓が三番から七番の水槽に空間移動する様子が克明に映しだされていたのだ。……あの時の感動は生涯忘れることは無いだろう。
その後、その空間移動した蛞蝓を使って色々と実験してみた結果、とうとう蛞蝓が空間移動し易い環境というものを作り出すことに成功した。これでやっと、「蛞蝓の空間移動」研究の第一歩を踏み出すことができた、と思っていた。
その矢先に、僕のところにある知らせが入った。何と鈴木が、ある科学雑誌に蛞蝓の空間移動に関する論文を載せたというのだ。
鈴木の論文は素晴らしいものであった。そこには、僕が発見した「蛞蝓が空間移動し易い環境」はもとより、空間移動の仕組みについての仮説も織密なデータと見事な論理構成によって詳細に述べられていたのだ。
研究では鈴木に負けたことになったが、不思議と敗北感は無く、僕は鈴木の研究の成功を我が事の様に心から喜んだ。
しかし鈴木の研究が学界で認められることは、無かった。
そして暫くして、鈴木は謎の失踪を遂げた。僕も心当たりをあちこち探したのだが見つけることはできなかった。
鈴木が失踪してから一ヶ月後。
僕が大学から家に帰ってみると、薄暗い部屋の中に何か横たわるものがあった。
よく見ると人の形をしている様だが、表面は何やらぬめぬめしている様であり、人間と比べても一回り小さい。おまけに頭には角の様なものが四本ついており、見ようによってはでっかい蛞蝓にも見える。そして顔の部分を見ると――何と、鈴木の顔ではないか!
「す……鈴木、なのか?」と問いかけてみると、
「やあ、帰ってきたか。突然君の家に押し掛けてきて申し訳無い」事も無げに答えてきた。
「そ、そんなことよりお前、その恰好は一体……」
「これか……。話せば長くなるんだが、結論から先に言おう。僕は……人間をやめて、蛞蝓に生まれ変わる」
「何だって!」
そんな莫迦なことが……。しかし鈴木の姿はまるで蛞蝓の様ではないか。
鈴木は自分の身に起こったことを話し始めた。彼は蛞蝓の研究を進めていくうちに、蛞蝓と意思を通じる方法を発見し、彼の研究パートナーである蛞蝓たちから様々なことを聞き出した、と語った。
「し、しかし、どうして蛞蝓になろうなんて思ったんだよ」
そう訊ねると、鈴木はフッと笑ってこう言った。
「蛞蝓をなめたらいかんよ、君。彼等は人間の持つ文明とは質は異なるが、かなり高度な文明を持っているんだ。彼等の持つ空間移動能力の御蔭でね。
僕の研究論文を読んだだろう? 読んだなら知っていると思うが、蛞蝓が移動できる距離は……無限なんだぜ。その気になれば恒星間移動も簡単にできるんだ。実際彼等は自力でこの地球とよく似た環境の惑星を幾つか見つけ出し、生活圏を銀河系全体に拡げつつある。僕は……彼等の文明をこの眼で見てみたい」
「そうか……成る程」
俄には信じ難いことを次々と聞かされて驚いていたが、目の前の鈴木の姿を見れば信じるしかなかった。それでも、同じ科学者として、彼の気持ちも分かるような気がした。
ふと鈴木の姿を見ると、僕はあることに気がついた。
「ん? お前の体……段々小さくなっていないか?」
「ああ、僕の体は徐々に蛞蝓に変化していく様に改造したんだ。あと一時間もすれば僕は完全に蛞蝓になる。その前に君に会っておきたかったのさ」
「……」
「そうだ、君に紹介したい
「紹介しよう。蛞蝓の……さんだ(鈴木は蛞蝓の名前を言うとき触角を動かしていた。多分その身振りが蛞蝓にとっての言語なのだろう)。彼女の御蔭でこの体も改造できたんだ」
鈴木に紹介された蛞蝓は角で御辞儀をしたように見えた。
「彼女だって? まさかお前……」雌雄同体の蛞蝓を彼女と呼ぶと言うことは、つまり………
「御察しの通り。彼女と僕は将来を誓い合った仲なのさ」そう言って鈴木は微笑した。
これには流石に僕も開いた口が塞がらなかった。
「……本気で蛞蝓になる気なんだな」
もう人間の体形も崩れてきた鈴木は、それでも肯いて答えた。
「そうだ、僕の研究の全データは郵便で君のところに送っておいた。君に預けとくから、更に研究を進めるなり何なり自由に使ってくれ」
「分かった」
「これで君に伝えたいことは全部話した。喋れなくなる前に失礼するとしよう」
「えっ、もう行ってしまうのか?」
「ああ。これで永遠にお別れだな。それじゃあ、さようなら……」
「おい……鈴木……鈴木ぃ……」
ゆっくりと、消えていく様に、鈴木と一匹の蛞蝓は、去っていった……。
――あれから十年。
鈴木の研究データは、今も僕の机の