近所の映画館にて『千と千尋の神隠し』をレイトショーで観る。面白かったです。
観ている間面白かったのは確かなのだが、観終わってみると別の感情も浮かんでくる。何というか、納得のいかないとでもいうべきか。それほどに否定的ではないにしろ、心に引っかかるもの。
どこかのウェブページでもみかけたのだが、説明の少ない物語ではある。主人公の千尋は特に理由もなく突然に異世界へ引き込まれる。そしてあれだけの幻想(どれだけか、は観てのお楽しみ)を体験したというのに、望んでいたこととはいえまた突然に現実世界へと帰ることとなる。異世界での出来事は現実とは断絶され、千尋の頭の中にしか存在しないのと等価になる。
それはまるで、かつての宮崎作品、『ナウシカ』や『ラピュタ』などをTVで観て、物語世界にどっぷりと浸り、放送が終わった後、物語世界は完結しているのに観ていた自身は現実世界へ取り残され、途方に暮れていたむかしの自分、をメタな視点で観ているかのような。そう思うと、千尋はこの先現実世界で大丈夫だろうか、といらぬ心配が浮かび、ちょっと考え込んでしまうのだった。
かつて宮崎作品を楽しんだ大多数の人がそうであるように、千尋も現実世界でどうにかやっていくのであろう。しかしあの幻想世界を体験するのとしないのでは、その後の人生も変わると思う。果たしてどちらがよかったのか。ひるがえって、物語をみる/よむことで人はどのように変わるのか、それはその者にとっていいことなのだろうか……というところまで思考は及ぶ。結論は出ない。
風呂宿の名前が「油屋」というのがしゃれていて面白いと思ったのだが、調べてみると実際に「油屋」という屋号をもつ温泉宿も幾つかありました。
どれも「ゆや」ではなく「あぶらや」でありますね。してみると「湯」と「油」のしゃれかと思ったのは早計だったか。
漢和辞典でも、「油」の字が「湯」の意味で使われた例はないようだ(よく考えたら「油(ユ)」は音で「湯(ゆ)」は訓なのだから漢語での用例がないのは当たり前であった)。ちなみに「油」はもとは川の名だったとのこと。
(2001年8月11日)
北村曉 kits@akatsukinishisu.net