誰がためにマークアップ

釣瓶雜記の12月27日分に言及してみます。

本來書かなくても分る事を一々書かなければならないと云ふ事になれば、それははつきり言つて、人間がコンピュータに使はれてゐると云ふ事態の出來に他ならないと私は考へます。

人間がコンピュータの道具になるべきではありません。コンピュータの方が人間の道具であるべきなのです。パーサだの何だのばかりを主語にして語る人々には、人間が道具の道具へと成り下がる危險への警戒が足りないと、私は言はざるを得ません。

そのように言ってしまうと、マークアップを妥当validなものにすること、或いはマークアップそのものを否定してしまうことになるのではないでしょうか。

何故なら、人間はHTMLタグなど無くとも文字列textのみで十分文章構造を理解できるから。または、マークアップとは以下のようなものだから(PC Tips内「HTMLとは?」より)。

自然言語で書かれた文書を、要素ごとに分割していく作業、或は、文章の中に潜在的に存在する要素をタグによつて明示する作業の事を、マークアップ(マーク附け)と言ひます。

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或いは、引用した文章に基いて考えると、以下のような主張もあり得るのではないでしょうか。

「HTMLをいちいちvalidにしなくとも、大抵のブラウザはエラー処理機能を持っているし、仮にエラー処理されなくとも、最終的に文章(テキストそのもの)人間に伝わればそれで十分である。ブラウザやら検索エンジンやらその他様々なUA(いずれも内部に「HTMLパーサ」を持っている筈)にとって処理しやすいようにHTML文書をvalidにすることなど、人間がコンピュータの道具に成り下がっていることに他ならない」

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パーサはマークアップされた文書を処理しますが、そのパーサは結局のところ人間の意思によって利用されるものでしかないわけで。なので、パーサが処理しやすいようなマークアップを行うことは「人間が道具の道具へと成り下がる」ことにはならない、と考えます。楽観的かもですが。

(2004年1月6日)

北村曉 kits@akatsukinishisu.net